1996-04-04 第136回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号
しょうがないから内閣委員会から、私、自民党さんは伊能繁次郎さん、臼井さん、民社党さんは受田新吉さん以下何人かの方、公明党さんも鈴切さん以下の方々、みんなで行って、教職員会が中心で、教職員会を代表して屋良朝苗さんが琉球政府主席で、返ってきた県の県知事になった。喜屋武真栄さんがこれも教職員会で参議院に当選したわけだから。そうでしょう。そういう状況ですからね、沖縄というのは。
しょうがないから内閣委員会から、私、自民党さんは伊能繁次郎さん、臼井さん、民社党さんは受田新吉さん以下何人かの方、公明党さんも鈴切さん以下の方々、みんなで行って、教職員会が中心で、教職員会を代表して屋良朝苗さんが琉球政府主席で、返ってきた県の県知事になった。喜屋武真栄さんがこれも教職員会で参議院に当選したわけだから。そうでしょう。そういう状況ですからね、沖縄というのは。
伊能繁次郎さんと私、それから民社党の受田新吉さん、御熱心でね、公明党の鈴切康雄先生、この四人で、実は伊能さんと私と鈴切先生と受田先生で内閣委員会に恩給小委員会をつくったんですよ。こんなになっていましたから。 それで線を引いてここでと決めて、これで片づくかと思うと片づかないで、また線を引いて、それで片づくか、片づかないでまた線を引いて、それで片づかない。
それからもう一つ、国民の祝日法の審議に参加した、当時は社会党の人であったわけですが、受田新吉さんという衆議院議員、この人も衆議院の審議に参加されたが、後「日本の新しい祝日」という本を自分で出しておられる。その本の中にこういうふうなことを言っておられます。
○大出委員 当時、与党の自民党の皆さんのところは伊能繁次郎さんが非常にお元気でこの問題に取り組んでおられまして、公明党さんは鈴切康雄先生がこれまた一生懸命やっておられまして、民社党さんは受田新吉先生がこれは本当に一生懸命でございまして、私の党は私がやっておりまして、内閣委員会に恩給の小委員会をつくりまして、外国特殊法人をどう拾うかということで、本当に恩給局の方々や専門家の方、調査室の方、みんな来ていただいて
この点はかつて内閣委員会に民社党の受田先生という方がおられて大変こういう問題に詳しかった。私もずっと聞いた経験もあるわけです。これまでも公的行為がどういうものなのか大変議論のあったところで、また、学者の説も二通りあるとか、私的行為と国事行為しかないのじゃないか、公的行為とは一体何なのかという御指摘もあるわけです。大嘗祭を皇室の公的行事として行う、この公的行事とした根拠は一体何ですか。
社会党の受田さん、それから吉田さん。これは御結婚が決まる前の状況でございますけれども、その際に、いわば両性の合意という意味と国の象徴との関係はどうか、どちらかというと御本人の意思を尊重すべきではないかというような議論がございました。婚約が決まった後、平井という議員がいささか反対の立場から、決まっちゃったけれども私は同意できないというような種類の発言がございました。
これにつきましては、実は五十年三月十八日に我が党の受田新吉先生からこれに触れていただいておりまするほか、各党の各先生がこれに言及されていることでありますが、さらに私はこの議会の初日、つまり十二月の二十八日に質問主意書を提出させていただきまして、年越えて一月の十二日にその御回答をちょうだいしました。法律的にはこれは答えておりますよ。しかし、世間常識からいってこれは答えにならぬ。
これは我が党の大先輩であります受田新吉先生の努力の中で、第九十六国会におきまして外国人教員任用法ということがやっと通過をいたしまして、それからようやく国公立大学に外国人の教授も入るようになった。このような閉鎖的なことが続いておれば、日本の大学なり教育というものが国際的になかなか評価しづらいということは、当然と言わなければならないと思うのでございます。
野呂恭一さん、金子みつさん、平石磨作太郎さん、受田新吉さん、柴田睦夫さん、中川秀直さんという各党代表の人たちが、こうやっている。 そうしますと、二番目の項目なんですよ。「恩給制度を準用し、戦地加算を考慮して、兵に準ずる処遇とする。」こういう一項目をどういうふうに考えているのか。単なる慰労金として考えていいのだろうかどうだろうか。
民社党の亡くなった受田新吉さん。公明党の鈴切康雄さん。逆に私は御同情をいただいて、私の議員立法を最後には委員会提出にしようと皆さんがお決めいただいて、だから私は参議院にまで提案理由の説明に行った。答弁は全部私です、各党が全部私に質問しましたから。そこまでやって、やっとこさっとこ国会の最終日の三時半ぎりぎりに、駆け込みですよ、やっと通って本会議で決まった。ちょうど丸十年ちょっと前です。
マッカーサー司令部へ行っていろいろ草案をつくるのを相談して、ウイリアムズからいろいろ忠告を受けて、そしてあのとき受田新吉君も一緒にやりましたが、何々したり何々したりという言葉を入れたのは、初めて法律にそういう言葉を入れたのは、私と受田君が相談して入れたのであります。
少なくともこの問題に関して朝鮮の人を無理やり日本国籍に直してこういう事例を起こしているからでありまして、この問題についてかなり早い時期でありますが、わが党の受田新吉議員が、この「徴用により樺太に居住させられた朝鮮人の帰国に関する質問主意書」というのを昭和四十七年の七月十二日付で出しております。
また、民社党の受田新吉先生、私の給与の先生でございますが、人事委員会の委員長時代から、私、長いおつき合いでありますけれども、ずいぶん御苦労されました。私ども一緒に一生懸命やったのでありますが、そういう経緯がございますだけに、一%予算が組んであって、そして人事院の勧告が四・五八%出ておるということ。
亡くなりました民社党の受田さんが私と一緒に給与をやっておりまして、公務員が前向きにこの仕事に取り組める、そういう環境をつくらなければ、この国はもたぬということをよくおっしゃいましたが、そのとおりだと私は思うのです。
受田さんだって伊能さんだって亡くなってしまっている。残っている私しか言う人間がないじゃないですか。本当に苦労した。三人で、受田さんと伊能さんと私で大蔵大臣福田さんともひざ詰め談判した。山中さんはよく覚えておいでになるが、三回も四回もお目にかかった、三人で。そして、福田大蔵大臣は、本当に腹を切らなければいかぬ、血の出るような思いだとおっしゃった。それが答弁にも出ている。
まだほかにもあるかもしれませんが、私が調べた限りでは四十三年十一月十二日、衆議院内閣委員会、亡くなられた受田さんの質問に対して増田長官が答えている。どう答えているか。「まず、GNPの一%ぐらいはという感じをいたしております。」ここから始まった。 それから、四十五年九月二十九日、参議院内閣委員会、中曽根答弁です。
実は私は、当時受田先生の秘書をやっておりましたが、これは受田先生がその引き揚げ給付金に対して国会の中で特段の努力をされた問題であるので、私はそのことをいま記憶しておるのです。 もう一つ、学校医とか学校歯科医、学校薬剤師、こういう方に対する労災の問題です。こういうものもまだ未措置になっておるのですね。
○中山国務大臣 先生のお話しの人事院制度創設以来の歴史、また完全実施に至るまでの関係各位の御努力、私はその点も十分認識をいたしておるつもりでございますし、また完全実施になりました際の国会における佐藤総理、山中総務長官、また受田新吉先生、大出俊先生の御発言の議事録等も詳細に拝読いたしております。
また、この人事院というものが、今日までの歴史の中で勧告というものの実現が初めてされた昭和四十五年の当時の佐藤総理と、その当時質問された、たしか受田新吉先生だったと思いますけれども、あるいは衆議院の大出俊先生の佐藤総理に対する人事院勧告の完全実施の際のいわゆる質問と答弁、その議事録も私は許しく読ましていただきました。
受田新吉委員一もう亡き人ですけれども、受田さんの質問、「第五条の外部から武力攻撃があった場合に、在日米軍が核装備をしよう、核兵器を持ち込もう、こういう場合も事前協議に入ると午前中御答弁があった。従って、日本が外部から武力攻撃を受けておる最中であっても、米軍に核装備をすることを断じて許さない、その場合もちゃんと断わる、かように了解してよろしゅうございますか。」これは受田新吉さんの質問です。
五十三年六月に、私のいわば前任者であります受田先生からの質問に対する御答弁がいろいろあったわけです。また、昨年は公明党の吉井君からの質問に対するいろいろな御答弁があったのですが、目がたつにつれてトーンダウンするような感じがしてならないわけであります。
実は、先ほど御指摘のこの臨時恩給等調査会ともう一つの審議会ですか、あの当時、私は実は受田先生の秘書をやっておりましたので、その辺の事情も大体わかっておるのでございますが、やはり特准に対する措置は遅きに失しておる、このように思うわけでございます。 ところで、この五十四年の改善措置によりまして特務士官、准士官の方々に対して実質的にはどのような効果があったのか、これをひとつお示し願いたいと思います。
最初に、私事を申し上げまして大変恐縮ですが、実は昨年亡くなりました受田新吉先生の後継者といたしまして、このたび新しく選出をされてきたものでございまして、受田先生が三十二年有半にわたり、長い議員生活の中でその大半を内閣委員として大きな足跡を残してこられたわけでございますが、そうした受田先生ときわめて御縁の深い内閣委員会所管事項につきまして決算委員会でこうして質問に立たせていただくこと、非常に私は深い感慨